3月11日
東日本大震災から10年の月日が経つ。
当時の僕は、仕事をしながら指導者の端くれとして、東京でバスケットボールを教えていた。
あの時間、職場で感じた揺れ、その後、テレビで流れた映像に言葉を失った。
職場からの帰り道、都心からの渋滞、歩く人の群れをかき分け、自転車を走らせたあの景色や感情はなんとも言えなかった。
眠れずに、指導をしていた選手たちの無事を確認し、テレビの情報と向き合いながら、これからどうなるのかと考えた。
けれど、僕は現地のことを何も知らない。
寄り添うなんて言葉も表現も、僕が発することは、何か違う。
10年たって、僕は今もバスケットボールをに関わり、発信をしている。
その中で、今年「震災から10年」というワードを何度も使っていた。
仙台、福島を中心とした東北地区
それぞれの街がスポーツ、バスケットボールを通じて元気になってほしい。
それでも被災地以外では、やはり時間が経つにつれて少しずつ風化されていってしまう過去を、今一度考え、向き合うきっかけになってほしい。
いや、向き合ってほしいのではない。そんな上からな言い方はおかしい。
僕自身の中でも、どこか風化していたり、過去のことになりつつあった。
僕自身が発信を通じて、もう一度しっかりと向き合いたいと思ったんだ。
今、仙台では、レバンガ北海道時代から親交がある稲實マネージャーが活躍する。
福島では、Bリーグ初年度から福島ファイヤーボンズで指揮をとり、コンテンツのゲストにもご出演いただいた森山知広HC、現在アメリカABAのCHICAGO FURYで活躍する猪狩渉、そのサポートを受けてアメリカに留学する四家魁人、そして、福島ファイヤーボンズでルーキーシーズンを過ごす山内翼などの福島出身の選手たちと親交がある。
スポーツだからこそ、伝えられることもあると思う。
彼らだからこそ、伝えられることがある。
10年前、4月23日、Jリーグ第7節ベガルタ仙台vs川崎フロンターレ
雨の中で、ベガルタ仙台の劇的な勝利、歓喜に沸くスタジアム、手倉森監督の言葉を今も覚えている。
2013年、プロ野球日本シリーズ第7戦、星野仙一が「田中将大」を送り出し、日本一を達成したあの空気感。
スポーツがさまざまなところで、勇気や希望を与えてくれた。僕自身も涙が流れた。
きっと、バスケットボールも…
そう思うと同時に、さまざまな言葉を読み、過去をもう一度見つめ返した時に感じた。
「10年は節目ではないということ」
今年、手倉森監督が10年の時を経て、ベガルタ仙台に戻ってきた。
田中将大が10年目の節目に楽天に戻ってきた。
当時、震災の影響で仙台89ersから琉球ゴールデンキングスに移籍をし、現在は仙台89ersの社長として活躍される志村雄彦の言葉も含め、さまざまなメディアでの言葉も見聞きした。
その時に、決して、10年が経ったから何かが終わる。
そんな一区切りではないのだと感じた。
僕は少し勘違いしていたことを恥ずかしく思う。
10年が経とうが、20年が経とうが、あの日はあの日のままで、色んな感情が渦めく。
その中で、それを後世に伝えていこうとする誰かもいる。
それにまだ向き合いたくない人もいるだろう。
10年だから、特別な日ではないことを今一度考える。
そんな10年を僕自身も考えたい。
そして、これからもスポーツを通じて、被災地へ何か微力でもできることを探していきたい。
どんなに想っても、僕にはわからないことや寄り添えないことがたくさんある。けれど、スポーツを伝える僕らにも、スポーツを通じて、わずかでもできることがきっとあると思っている。
3月11日、10年は節目ではないということを考える。