なぜだろう。
今も「あの日」のことは鮮明に覚えている。
あの伝統校がセンターコートに戻ってきた日。
僕は背番号4に魅了されていた。
あの日、間違いなくそこには確かな境界線があった。
絶対に超えることのない。
交わることはないと思っていたコートと観客席はその距離以上に遠く…
それはどこか選ばれたものしか踏み込めない聖域だと思っていた。
そんなセンターコートに7年ぶりに能代工業が帰ってきたあの日
僕は観客席でそのプレーを見つめていた。
そして、背番号4が躍動する姿に目を奪われていた。
その7年後、僕はその選手をインタビューする。
そんな未来がやってくるイメージなんて、これっぽっちもない。
なぜなら、ただの1人のファンだったから。
長谷川暢
そこにいた、あの日の僕が憧れに似た感情を抱いた秋田を背負う男。
僕は秋田という地でインタビューをする。
これ以上、光栄なことがあるだろうか。
ダブドリさんには本当に心からの感謝しかない。
そして、何より多くの秋田ブースターがご存知の通り、今シーズンの長谷川暢選手の表情の変化、成長は誰しもが認めるところだと思う。
秋田という場所でなければ、今の彼はなかったのではないか。
その活躍、言葉1つ1つを聞くたびにそう感じさせてくれる。
上手い選手は山ほどいる。
プロなのだから当たり前の話かもしれない。
けれど、そのプレーで、コートで見せるその表情で
人の心のどこかに問いかける選手はそう多くはない。
そして、その1人が長谷川暢選手だと私は思う。
秋田に向かう新幹線で
「泣いちゃうかもしれないです」
とダブドリ大柴編集長に言うと、笑いながら
「いいっすね〜、インタビュアーが泣く。新しいっすね〜」
と笑ってくれた。
練習を終え、僕らの方に歩いてきた長谷川暢選手は
練習の時とは打って変わった愛らしい笑顔で
「秋田へ、ようこそ!」
と僕らを迎えてくれた。
何より、この日常生活も難しい「今という時間」の中で、
彼が元気にバスケットボールをしている姿を見れたことにホッとした。
インタビューは泣かなかった。笑
それ以上に、彼の一言一言に成長を感じる時間だった。
クラブ関係者は皆、温かい方達ばかりだった。
帰りの新幹線で、大柴編集長が僕にこう切り出した。
「編集もやっちゃいますか?」
文章を書くことが好きではあるが、編集なんて経験は全くない。
自分がそれをするイメージもしたことがなかった。
最初は断ったが、ほろ酔いの大柴編集長はさらに畳み掛ける。
その時に、
「長谷川暢の言葉なら僕がやるべきなんじゃないか。いや、僕がやりたい。」
ふと、そう思った。
大柴編集長は隣でそんな未来を予想して僕に問いかけたのだろうか。
大柴編集長は、酔うといつも僕にとってこれ以上ないアドバイスをくれる。
なんなら会う時はずっと酔っててほしいとさえ最近は思うほどだ。笑
そんなストーリーもあり、今回インタビューから編集までを担当させてもらった。
初めての経験であったが、「今、長谷川暢選手が伝えたかったこと」を自分なりに引き出し、書き残したつもりだ。
だからこのインタビューを1人でも多くの方に読んでいただけると嬉しい。
7年前、僕は能代工業の長谷川暢のプレーに魅了された。
そして、今、きっと多くの秋田の方々が長谷川暢選手のプレーに魅了されているはずだ。
その中には、たくさんの子供たちもいると思う。
14年前
そこから7年もの月日の間、能代工業がセンターコートに立たないなんて、誰も予想しなかった。
それから7年後
伝統のユニフォームが戻ってきたセンターコートで
長谷川暢が多くの高校バスケファンを魅了した。
そして、その7年後
長谷川暢はダブドリに載る。
能代工業、最後の年に…
きっと今日から7年後
長谷川暢選手に憧れた子供たちがBリーガーになる。
僕はあの名作漫画の、あの言葉に長谷川暢を重ねていた。
「いつか秋田の…救世主になれる人かも知れないよ…長谷川暢っていうの」
いや、君はもうそんな存在になっている。
秋田ノーザンハピネッツの関係者、長谷川暢選手、ダブドリさんには今回のような機会を頂けたことに本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
そしてもう1人、今はアメリカで壮大な夢を追いかける長谷川暢選手の同級生であり、親友の猪狩渉選手にも感謝を伝えたい。彼が今回のキーパーソンの1人でもある。
ダブドリvol.11は4月30日発売です。ぜひ、お手に取ってくれると嬉しいです。